ひとびとの見守るなか、意を決した男は、ついに屋上から飛び降りる。
野次馬がわっと退く。
衝撃を予測して誰もが身を縮める。
男は舗道に叩きつけられる直前、カエルの舌に巻き取られ、ぱくり、と食べられる。
自殺は未遂。
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「階段と踊り場しかないの。どこまでも無意味に、いろんな長さの、いろんな広さの階段が、いろんな角度で、ただただ折れたり岐れたり寄り集まったりしているの」
あまり唇を動かさずに彼女は話す。ぼくはちらっとしか、彼女の歯を見たことがない。
「だから階段がこわい」と彼女は言う。「階段をのぼると、またあの果てのない階段に戻ってしまいそうで」とくに、のぼった先が見えない階段がだめらしい。「二階に着いたつもりで、そこがまた階段で、おりようしても、もう下にも階段しかないかもしれないでしょう?」それはずっと昔の話なんだよ。今残っている階段はみな、あの時代の生き残りにすぎないんだ。ぼくは彼女に説明する。
「わたしは鳥の群れだったことがある。ところどころの踊り場に刻まれた文字を読むの。読めば出られるのよ。でも誰かに読まれた文字は光を失っているから、まだ光っている文字を探して、どこまでもくだっていくの。読みやすいところは、もうぜんぶ読まれてしまっているんだもの。くだっていく先に、蒼白く輝く文字をみつけて、読めるか読めないかのとき、右の階段からあらわれた別の群れに先に読み終えられてしまったこともある」みんな鳥だったことがあるんだよ。君にも、君だけが読んだ文字があるんだ、ということはまだ話さずにおく。
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乾いた鍵に解かれる、濡れた鍵穴の身じろぎ