_ 意識も知覚の一部門であって、輻輳した高次元の空間で、意味一般について認知している。意識はそれ自身の力によって進行しているかのような錯覚があるけど、独立して存立しているように見えるのは、世界観という全体性に関わっているせいだろうか。意識が自発的なわけではなくて、自発性=自由というものも外官におけるクオリアのように、状況に対する把握=反応を効率化するために、天然の哲学によって加工された認識の技法なのだろう。世界(観)と、それに対置し得る鏡像を仮構して、世界の外で世界を眺める俯瞰的=包括的な視野を空想するわけである。法則を抽出するために。
意識にとっての世界はもちろん、代表的な性質を抽出して人形化(ピグマリオネーション)された幻像であるが、意識はそれを世界自体と認識するように要請されているし、世界を眺めるじぶんじしんを、いつでも世界の中に描き込むことができるから、世界を眺めるじぶんを含む世界を眺めるじぶんを含む世界を眺めるじぶんを含む世界を眺めるじぶんを含む世界を眺めるじぶんという無限背進の波に身を任せて、どこまでもめまいしながら流れていくこともできる。
質量のない鏡を支えるのは、映し出された像だけであり、意識の視野は常に視野に映るもののなかに含まれ、同時にそれを含む。これはそのままで、信仰の究極的な形態であろう。
健常な意識は、あらゆるものを、あらかじめ信仰している場所から出発する。そして、信仰していることをさえ信仰する。神という名前をつけて。
しかのみならず、なおも、それを外から眺める。言葉というルシファーの翼を借りて。