_ 時に、聞き慣れない副詞・接続詞に出会う。
えてして、みだりに、やおら、おもむろに。
最初はとまどう。物の名前を調べるのとはちがって辞書を引いたってぴんとこない、使えない。ようし、どんなふうに覚えていくのか見届けてやるぞ、と思う。
ところが、どうでしょう。気がついたときにはすでに使っているのである。何気なく。あたらしく覚えた瞬間などなかったみたいに。いつもそうなのだ。
寝入る瞬間を見届けることに腐心したおさない頃の試みを連想する。眠り込む瞬間まで起きているぞ!と心に誓う。まだ起きてるまだ起きてるまだ起きてるまだ起気がつけばすでに朝。「また、見逃した・・・」すっきり目覚めながらいつもがっくりしていた。
そんなありふれた朝のように、ふと気がつくとぼくはもはや、あたらしい接続詞の使い手になっている。まるであたらしい言葉を覚えたのではなくて、ふるいふるい記憶がよみがえったかのように。
見慣れない副詞の、その用法を、文脈から類推してみたことはある。でもそれはたまたまのことだ。ほとんどすべての接続詞をぼくは、なんと言おう、そう、ひとりでに覚えた。
_ 子どもたちは「だって」や「もっと」をひとりでに使い始める。どういう場合に「だって」と言うべきなのか、説明して覚えさせなければならないとしたら、誰もが立ちすくんでしまうのではないか。
_ 言葉のなかでもとりわけ副詞・接続詞たちは、謎めいて魔法的なけはいをまといつけている。
目の前を横切るけものを「ねこ」と呼ぶことや、心にあふれかえる熱烈な感情に「愛」と名付けること。その牧歌的な挙動とははるかに隔たって、あの精妙で、捉えがたく仄めく角度・径路のそれぞれを、見分け、言分け、名付けようとすること、それはさかしらで分外の試みであるように思える。不可能とさえ思える。けれどもどうしてか、企ては効を奏した。
_ 名詞や動詞、形容詞なら、いくらでも新しい言葉を創ることができる。でも新しい副詞や接続詞を創るのは容易なことではない。それらは、意味が通ることができる、定められた径路に付いた名前だから。
名詞動詞形容詞が言葉の肉体だとするなら、助詞は関節であり、副詞・接続詞はその肉体の振る舞いと言えようか。副詞・接続詞が機能しない場所では、意味は植物のように、ひとところに留まるだろう。
副詞・接続詞が、言葉を動物にする。餓えと欲望をあたえ、求め続けるものにする。意味を携え、また別の意味を尋めゆくものにする。
_ 言葉を覚えたサルたちの言語行動を見ると、かれらと私達を隔てているのは根幹的な一部の副詞・接続詞ではないかと思える。もしかするとただそれだけなのではないか、とさえ感じる。
〈もしも〉〈ならば〉〈しかし〉〈あるいは〉〈ようするに〉・・・・・・・
限りなく「人間的な」言葉たち。
この先人類がもし、人類以外のものに進化するときが来るとしたら、その徴候はひとつの、まったくあたらしい副詞・接続詞の登場かもしれない。