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雪雪/醒めてみれば空耳

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2003-01-15 ぬばたまの鳥は かたちのない庭に降りる(1)

_ 「大統領の名前をさかのぼって挙げてください」

アメリカの精神疾患の症例集や精神分析っぽいテーマのミステリーを読んでいると、健忘の程度を測るシーンにこのセリフが頻繁に出てくる。俺は日本の現首相の名前も思い出せないのだが。まして順番にさかのぼるなんて無理。

固有名詞がなかなか出てこないので、書けることは限られてしまう。それに、固有名詞が必要なところでそれなしに考えていると、やけに容量を食うのでかなわない。ワーキングメモリがすぐにいっぱいになってしまって、大きく考えることができない。速く繊細に想うことができない。

失ってみるとわかるのだが、名前や概念の検索というのは触覚に近いものがあるな。最近は心の指先に血が通ってない感じがする。

_ 子どものころじぶんの心のなかに起源のわからない触感を見付けると、心の指でそっと触れて、壊れてしまわないように注意深くかたちを探った。かたちがはっきりしてくると、今度はそのかたちが示すいくつかの角度から、いったいどんな場所に行くことができるのか、闇のなかを手探りしてゆく。あ、ここに径路がありそうだ、と気付くと、少し逡巡する。最初の触感から離れてしまうと、もうそこに戻れないかもしれないから。おそるおそる、ほんの少し離れては戻り、思い切って羽ばたいてみてはさっと身を翻ししてその先にあるものが、最初の触感と引き換えになるくらいすてきな感じかどうか、天秤にかける。そして、思い切って飛ぶ。うまく着地できたら、ふたたびそのあたらしい場所の手触りをそっと探り始める。そこからまたどこかへ。

はじめの場所から遠い遠いところにたどり着くと、時折、ずっと昔に別の径路から来たじぶんの痕跡を、見付けることもある。ああ、あの道をまたたどることができるのかとうれしかったりもするし、それより別のあたらしい径路をたどりたくもあり。

そんなふうにして、心のなかを飛び石伝いにどこまでも動いていくと、心の外のことはすっかり意識から遠のいてしまって、はっと気付くとあたりは真っ暗で、空腹と消耗のあまり、すぐには立ち上がることができないのだった(これをやると、体重が2キロぐらい減るのだ)。

_ ああ、そうだ。

小泉な。

.

経験とカンを頼りに、心のなかをむやみに動き回っていたぼくは、だんだん言葉を覚えるにつれて、非常に驚かされることになった。

じぶんでは、なんか神秘的で奥深い「特別なこと」をしているつもりだったのに、それは誰でもやっているありふれたことなんだと分かってきたからだ。

_ 心のなかの場所から場所へ、かたちからかたちへぼくを運んでくれる、まぼろしみたいに微妙な〈角度―径路〉のひとつひとつに、なんと名前が付いていて、世の中でふつうに使われていて、国語辞典にだって載っているのだ。

こいつはびっくりだ。世界はどうやら、ぼくの想像を超える不可思議なしくみになっているらしい。鈍感でなまいきで世界を少しなめていたぼくは、ちょっと神妙になった。

_ ぼくはひまな時間があると国語辞典を読んだ。魔法の名前を集めた。ひまな時間というのはつまり授業中である。授業中以外に国語辞典を読むほどにはひまじゃなかった。

自由課題の読書感想文に「国語じてんを読んで」というのを書いて先生におこられた。だって国語辞典ぐらいしか読んでないんだものなあ。

_ そのうちに、ふしぎな名前たちは、たいていおなじ分類に属することが分かってきた。

_ それらは概して「副詞」や「接続詞」というなかまに入っていて、<たとえば>とか、<あるいは><そして><なぜなら><けれども><もしも><つまり>というような名前のものたちだった。

かれらの名前を呼ぶとそれだけで、意識を集中することもなく、微妙な角度を測ることもなく、羽ばたきもせずに心のなかを移動してゆけるのだ。高層の気流に乗って、睡ったまま山脈を越えてゆく渡り鳥のように。

ただ単に、ならば―しかし―とはいえ―すると―あたかも―、そんなふうに唱えるだけで、高速で心のなかを動いていけるのは楽しかった。ああ、世の中で言う「筋道が立つ」ってこのことか、と思い当たった。

_ もっとおさない頃、こたえは分かっている気がするのに、どうしても考えがそこに到達しなくてじたばたすることがあった。

「どうしてわかっていることがわかっているのにわかれないんだろう?」

副詞・接続詞という気流がないから、ただむやみにあてどない風となって吹いていたのだ。ときには、つむじ風のようにその場に留まったまま。今はまだ立たない筋道を渇望しながら。なにを欲望しているのか、気付かないまま。

_ 思えば心のなかをどこまでも羽ばたいて飛んでいったとき、ぼくは内容のない概念から概念へと、思考が静止に堪えられずに立ち上げてしまう筋道に沿って、ひたすら動き続けていたのだ。ふつうに物事を考えるしぐさとおなじこととは気付かないで。

内容のあることを考えていたら今頃もっと賢くなっていたのにと、口惜しい思いにかられたり。でも、考えの外側を飛ぶのは、暗くてきらきらして、とってもどきどきする体験ではあった。

闇に射す一条の光のように筋道が立ち上がるあの瞬間―。

_ ぼくは「副詞・接続詞」が大好きになって、この角度やあの径路にどんな名前がついているのか探索を続けたが、やがてあたらしい不思議が、小舟の上から見る魚影のように、群れをなして浮かび上がってきた。