_ 子どものころはいろんなことが未分化なせいか文脈のさだかでない共感覚がたくさんあった。
色のある匂い、手触りのある考え、味のある脇道、右の肩にすっと降り立つ声。
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泣いて泣き疲れてぐったり寝転んでいるときには、脳のなかにつっかい棒のように立っているオレンジ色の柱がにぃいいぃーんと唸り始める。この音が微妙にゆらいで楽しげにくすぐってくるものだから、それに気を取られてしばしば、泣いていた理由を忘れてしまうのだった。
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日曜日にはひとけのない幼稚園によく出かけた。庭の礼拝堂の前がお気に入りの場所だった。じっと立っていると、やがて鋭いくらい真っ青な夕陽の匂いがあたりに立ち籠めてきて、ぼくが誰かであるということからぼくの眼を逸らしてしまう。そのときだけ、心のなかでなら、360度のうちには数えられない角度に歩いていけるんだとわかった。
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八歳から九歳のころ、「田園都市線」という名前がいわれなく力を得て、心のなかで唱えると、いつも世界に漂っている濁りが地平線のむこうまで退いていって、信じられないほど世界が透明になった。教室の窓際の席から外を眺めているぼくが、とつぜん涙を流し始めるので、先生や同級生をときどき驚かせた。そのころ書いたものを見ると、班の名前や文集のタイトルがなんでもかんでも「田園都市線」になっていて、なんだか微笑ましい気分になる。
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いろいろな曰く言いがたいものが、言葉でないものや別の言葉の力を借りて、じぶんを言おうとしていたのだろう。
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長じて語彙も概念も身についてくると、ああ、あれはこのことだったのだとしばしば思い当たった。
今は頭の中にも集落ができ道によって繋がれ街が育ち、それらが地図に写し取られて、いまいるところがどこで、どこへ向かっているのか、とても言い易くなった。自分に対しても。
おさない頃は、着想がどこかへ行き着こうとしても、まだ筋道がないために、もどかしくただひたすらにその方向へ方向へと考えが吹いていたのだ。
あの頃は、そこいら中が荒れ野だったし、ほとんど道もなかった。地面さえないこともあった。
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言うことのできることが増えるにつれ、それらの感覚も消えていった。「田園都市線」も、いまは懐かしいだけの言葉になった。
でも、これと思い当たらない匂いや、色や、気持ちが、まだいくつか残っている。いまも風のようにどこかへと吹いている。「田園都市線」では通ることができなかった角度で。