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雪雪/醒めてみれば空耳

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2003-01-06 書いた憶えのない著書を読む著者  永井均 『<子ども>のための哲学』

_ 永井均という人物が物理化学的にまったくそのままで、ただ<この私>でないことがあり得る。

とすれば、どの<私>であってもこの永井均は『<子ども>のための哲学』を書く、ということになる。

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『<子ども>のための哲学』が読まれつつあるとき、論旨にとって、著者名にあたる位置に「永井均」と書いてあるという事実は、背景的な偶然である。読む者は「じぶんの考えを親切にも誰かが手際よくまとめてくれた」と考えてよい(考えないとわるい)のであり、すなわち読者は、「書いた憶えのない著書を読む著者」という稀有な役柄を振られることになる。

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この本のなかで「他人は私がほんとうにいわんとすることを理解できてはならない」、そう語られるとき、同時に読者ひとりひとりがおなじ言葉を語る権利を持つ。

「他人は私がほんとうにいわんとすることを理解できてはならない。」

このとき、おなじ言葉はおなじ言葉ではなく、ここには、果てしなく否応なく繰り返される「読み換え」など存在しない。

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「得ることのできた読者の数だけ本は存在する。」これは言い古されたフレーズであるが、『<子ども>のための哲学』は、読み得るすべての読者の数だけ存在する。ぴったりおなじ数だけ。

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おなじ『<子ども>のための哲学』を読み得るふたりは存在しない。

そしてまだ読んでいない誰にとっても、その人のためだけのただ一冊の『<子ども>のための哲学』が、どこかの本屋に存在する。