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雪雪/醒めてみれば空耳

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2002-12-07 水のなかの煙

_ 「大きくなったらなにになるのかな?」と聞かれると、「かみさまになる!」と答えていた。素直な答えではない。言いたいことをどう言えばいいのかわからなくて、いろいろと工夫してみた結果の苦し紛れである。この答えは、大人は軽く聞き逃してくれなくて、めんどうなことになるからすぐにやめたけど(無責任だ)。

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ヒロシくんの家は、産婦人科を一軒はさんだ隣だった。幼稚園はちがったけど、一年生になったらおなじ組になれた。

「ヒロシくんあそぼう!」

「今日は父ちゃんと出かけるからだめ」

じゃあいいや。帰ろ。

産婦人科の前を引き返しながら、よく晴れた空を見上げる。あたりで一番高い銭湯の煙突から、輪郭のない旗のように白い煙がたなびいている(あのあたりは速い風が吹いているんだな)。

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二階の窓から屋根の上に座布団を二枚持ち出して、寝転がって煙を眺めるのが好きだった。銭湯は奥まった家への通路がわりの空き地をはさんですぐ向こう隣なので、座布団の上で仰向けば、視界に入るのは煙突の先端と煙と空だけだ。あと雲。それと鳥。

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産婦人科のファサードを左端から右端まで歩く、ほんの短い時間。観測と記憶と想起。

どれも変哲のない細部だけど、この組み合わせで起こることは二度とない。ぼくの知る一瞬はどれも、二度とない心の配列でできている。

ぼくにわかることは全部、ぼくの心を通る。わかることのすべては、ぼくの心の材料でできている。だったら、心の配列をいろいろに変えてゆけば、まだわからないことがわかったときの形になるかもしれない。経験していないことを、すでに経験してしまっている形になるかもしれない。記憶にないことを思い出せるかもしれない。

もしかすると、「かみさまになる」とあてずっぽうに言ってみた、そのかみさま的状態にだってなれるかもしれない。じぶんのみる夢なのに、夢がときどきぼくの不意を突いてびっくりさせるみたいに、ある日突然ぴったりくるかもしれないんだ。

心は、水のようにやわらかいんだから(煙のようにつかみどころがないけど)。

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産婦人科の前を通り過ぎて、ぼくの家のコンクリートの塀を左手でざらざらざらと触りながら歩く。

今みたいななんでもない時間も、記憶のなかに残れば、また別の配列の材料として、何度も何度も使い回されるだろう。なんでもない時間だけど、こんなことを考えてしまったから、これは残るかもしれないな。

「ただいま」「あら、ヒロシくんいなかったの?」「でかけるって」

だん、どん、だん、と一段とばしで階段を上る。母の声が追いかけてくる。

「屋根に座布団出しちゃだめよ。ほこりだらけになるから」

ぼくは返事をしない。やるつもりだから。

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