_ なんでもわかりやすくしてくれる養老孟司が、「実在とはその人の日常生活である」というような話をしていました。日常、のべつ出会っているものは、どんなものでもリアリティがついてくる。数学者は数にうずもれて生活しているので、数が実在だと思うようになる。デカルトは抽象的なことばかり考えているので「思う」が「ある」に直結するようになる。世の中金だ!と思っている人はお金こそがリアルになる。
うーん!わかりやすすぎ!
ネット上で「真の実在」について議論しているのをROMっていたら、意見がバラバラ。物だとか心だとか神だとか無だとか愛だとか脳だとか遺伝子だとか。それぞれの日常生活がほの見えるようです。
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ぼくの脳はいつも、ぶつぶつ独りごとを言っていました。子どものころから脳の話を聴くのが大好きだったからでしょうか、言葉にはとても実在感を感じるのです。そのせいで、たくさんものを考えると頭が重たくなります。一時的に頭のなかの実在が増えて。
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いちばん好きな言葉はたとえば、にばんめに好きな言葉はあるいは。
たとえば、たとえばと言うときの脳裏がペラペラっとめくれる感じ。
あるいは、あるいはと言うときの半身で振り返ってメンチ切る感じ。
たとえばとあるいははとてもよくなついてくれたので、いまでは固有名みたいです。「たとえばー」と呼べば大喜びで走ってきます。ぼくのにおいをくんくんと嗅ぐと、さっと身を翻して例え話を捜しに行きます(行きました)。
もしももうひとつ挙げるとすれば、もしもです。もしもはたとえばと並んで、もっとも脚の速い言葉です。でも、ついたとえばを使ってしまいます。どうしてかというと、もしもの守備範囲はほとんどたとえばの守備範囲に包括されてしまうからです。
もしもたとえばが的確な話を拾ってきても、書くときはもしもで書き出したりすることもあるわけです(この文のように)。それでもたとえばは怒ったりしませんけど。かれらは書き取られることより、動き回っているほうがずっと嬉しいのです。
とはいえむしろまさしくも好きです。名前を呼ぶだけで楽しくなります。
とはいえ、なぜならがあまりなついてくれないせいで、なかなかためになることが書けないのですけど。
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