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雪雪/醒めてみれば空耳

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2015-11-11 叙景集

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居留地を貫く幹線路を歩いてる。ふいにびょうと横殴りの風。ころんころんと道を横切っていったのは転がり草ではなく、結跏趺坐のままミイラ化した覚者。

森の際や丘の上にも結跏趺坐した人影がある。生死は不明。

静か。とても静か。

穏やかな人のそばにいると、自分も常になく穏やかな心持ちになったりするものだが、この場所は、その人の周囲に広範に「平静さ」の圏域を濃厚に展開するくらい落ち着いた人達の居留地。そんな強烈に穏やかな人たちのけはいが、幾重にも重なっているような場所だから。

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意識は個人の主人ではなく、リアルタイムの判断の権限を持っていないという知見が一般的なものとなり、意志や欲望や自由の意味が否応なく変わり、ひと時代前の文学のほとんどが、神話やメルヘンのようにしか読めなくなった頃から、悟りを開くことが容易になり、世界に覚者が増え始めた。

「『色即是空』即是色」「『空即是色』即是空」という不可思議なフレーズが、覚者の中の覚者たちから生まれ、人口に膾炙したが、むろん悟らざる身である私には意味不明である。

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覚者は共同体の鎮静剤のように働く。彼彼女らが増え過ぎると、共同体は活力や競争力を失い急速に衰亡する。加えて彼彼女らは病弱で、危険な感染源になる。免疫がひどく非活発であるために。まるで体内でさえ争いはしない、とでもいうように。ゆえに隔離せざるを得なかった。

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覚者達は煌めくような叡智を持っていた。すばらしい書物がいくつも書かれた。しかしどれもこれもおなじすばらしさだった。科学的技術的芸術的にあたらしいものはなにも生み出さなかった。ノーベル賞といえば平和賞しか獲らない賢者たち。

さらば科学や芸術の、斬新な知見を世界から掴み出すには、強烈な妄執や欲望が必要なのかもしれない。

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誰でもよかった。最初に出会った覚者に話しかけようと思っていた。

最初に動いているのを見かけた覚者は子どもだった。道筋の行く手から、私が来るのを知っていたように歩いてくる。少女か少年か、にわかには判別できない。

居留地で子どもはめずらしい存在である。覚者達はほとんど生殖しないからだ。子どもである、というだけでその人が特別な存在であろうことが分かる。

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「集められたことによって、あなた方は一層弱っています。居留地は解体され、距離を置いて一人ずつ暮らしていただくことになりました」

その人の表情は変わらない。私に判別できるほどには。

「気にしないで。私達はここで一足先に滅びます」

「そ、それは」

私は説得の言葉を継ごうとして、しかし押し黙った。そうだ、議論の余地はない。これは総意なのだ。かれらは厳密に同一の世界観を持っているのだから。

「先に、と言っても少しだけですよ」

「え」

「驚くことはありません。ありふれたことです。絶滅なんて」

そしてその人は、満面の笑みを溢れさせた。そのように見えた。表情は無表情のままで。

私は咄嗟にドローンとの接続を切った。

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轟音とともに2000㎞離れた肉体に帰還した。

いきなりの切断は奨励される行為ではない。私の認知系は自分の肉体に激突して、抽象的な土煙がおさまるまで、惑乱した。

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まだ息が荒い。

なんだあれ。

ここよりも近く今よりも高い場所を見た。ちらっと。

あの子どもは、たぶん私の悟りを開こうとしたのだと思う。なにげなく、飴の包み紙をほどくように。そこに飴があったから。

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それ以来、私の心の中には箱がある。内側から開こうとする箱が。

私の心は、いつもその箱の上に座っている。開かないように。

箱の中からノックの音がする。礼儀正しく穏やかに。余裕の間隔で忘れた頃に。

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