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『こちらあみ子』が文庫化されて、今村夏子をはじめて読んだ。
はじめて書いた小説「こちらあみ子」で太宰治賞。二作目の「ピクニック」を加えた単行本で三島由紀夫賞。
三島賞では、選考委員がまっぷたつに割れて、最後まで受賞を争ったのは柴崎友香『ビリジアン』。強敵だ。
話題性は充分だったが、僕は初刊時に拾いそこねて、この人はそれっきり書かなかったので、二冊目三冊目で後追いで捕捉するということもできなくて、うかうか文庫化まで見過ごしてしまった。文庫には新作「チズさん」が収録されていて、たった三編、これが今村夏子の全作品である。
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「どうしてこのような小説がいままで書かれなかったのか」という評言があったが、このような小説を書ける資質を持った人は作家に向いていないだろうし、そもそも小説を書かないだろう。なんらかの奇跡的な配剤によって小説を書いてしまった今村夏子は、作家を本業にすることはないだろうし、以後新作を書くことがあったとしてもきわめて寡作にとどまるだろう。
ぽっと出の新人の、たった三編の作品がいずれも目の覚めるような傑作だったら、既存の作家や文芸を志す人は嫉妬にかられるところであろうが、そんな気配がないのは、誰も自分の土俵を侵されたとは思っていないからか。あるいは、こんな作品を書けるような人には、なりたくないからだろう。
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表題作。知的に障害があるあみ子の造形は手堅く、読者におのれの先入見や酷薄さや鈍感さを突きつけてくる。ここであみ子は読者と対照的に純粋だったり一途だったりまっすぐだったりするのが物語の導くところであろうが、あみ子じしんも先入見に満ち、酷薄で鈍感である。
あみ子は同級生ののり君が好きで好きで大好きで、のり君の習字は格別に美しいと思っている。教室の後ろにみんなの習字が貼り出されると、あみ子はいそいそと見に行く。好きになって何年たってもあみ子はのり君を「のり君」としか知らないから、名前で見分けることはできない。でものり君の文字ならひと目でわかる、と書けば物語の導くところ順風満帆であろうが今村夏子はそうは書かない。あみ子は毎度毎度「のり君のどれ」と尋ねる。わかんないくせに教えられれば「やっぱりのり君はすごい」と思う。度し難い。
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今村作品で軸になるキャラクターはいつも、なんらかの意味で劣位にあって、軽んぜられていて、憧れや恋愛の対象になりにくい人である。魅力のない人物をいきいきと描いているから見事に魅力がない。そこにピュアな魅力を読み込んでしまう人が多いのは、ある種の祈りであり、物語を読む者の宿痾であろう。
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今村作品は、ありふれた話である。住み慣れた街の、小汚いから曲がらない路地。用のない裏道。関わりもなく興味もない他人の家の中。すぐ身近にいくらでもあるが、永遠に未踏の秘境。目を逸らすまでもなく目に入らないもの。物語が寄りつかない住所。わたしたちの心のなか記憶のなかにもある、剥き出しであって、しかし顧みられない場所に連れて行かれる。さして危険はない。しかしこわい。
読み進むのがつらく、何度も本を置いて、息を整えなければならなかった。特に二編目の「ピクニック」は、情けなくも半身になって、おそるおそる読んだ。いつでも逃げ出せるように。
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子どもの頃、私は男の子のようなイタズラをたくさんしました。女子と先生にはある程度大人になるまで好かれたことがありませんでした。 <br>すぐ近所に住む祖父が死んだ時、「どこのおじいちゃん?」と尋ねました。五歳だったので大目に見られたのでしょう。その後も、私を見る大人の目には戸惑いとしばしば怒りが浮かび、きちんと話をしようとすればするほどになぜか相手は馬鹿にされたというような反応を返してきました。 <br>あみ子はたぶん他人に無関心なのではないのだと思います。でも事実としては無関心なのだとも思います。 <br>真実はどちらの側にも個別にあります。 <br> <br>人が省略したとも思わない程度の省略の仕方を、その仕方を知らない者には乗せられた意味のわからないことを。 <br>顔を覚えることが壊滅的にできない人には、クラスメイトのすべてが毎日違う人であることを。 <br>なにかを綺麗だと思ったのに、その作者の固有名を覚えていられないことが、その同一性の規則すら覚えてはおけないことが、あることを。 <br>覚えていられた断片が私の世界を完結させる最初の曲線になって、どこまでもその断片に基づいて現実世界とはずれた像を描きながら伸びて行ってしまうことを。 <br> <br>「〜ない」で言い表す、私の触れない世界が時々空気の塊のようにどこかしらにあって、その文字の読める人には声を発さずともわかるような了解からは少し外れた世界をうろうろしているので、あみ子の世界が自分の、今は少し発達したような気になっている私のナマの幼い記憶を刺激してやみません。 <br> <br>まだ表題作だけしか読めていませんけれど書き込んでしまいました。
うわー、しまったー本ではなくて私のことを書いてしまったー。 <br>と翌日から今日まで頭のどこかでうねうねしております。 <br>ここには本のことを書くこと、と決めていたのですが。 <br>(とはいえすでに『私の記憶』について書いてしまっておりますが) <br>「図書館の魔女」をえっちらおっちら読んでいます。 <br>雪雪さんの書かれたヘレン・ケラーの自伝を借りに行って見つけた聴覚障害者のインテグレーション教育などについての本「たったひとりのクレオール」を読みさした後だったので手話の別についてなど納得しながら読んでいます。 <br>私はあまり政争もののファンタジーを読みたいと思わずきたので現実の政治についても疎く、この本を読みつつ異世界の敷き方、地勢図、などあまりに詳細に書かれているために逆に面白いところが多いです。 <br>出てくる食べ物を美味しそうに感じたり、人の話した言葉からの推理にはホームズみたいだーと興奮したり、近頃まったく本が読めなくなったと思いつつも楽しんでいます。 <br> <br>「骨狩りのとき」エドウィージ・ダンティカ(クレオールつながりで思い出しました) <br>「もうろく帖」鶴見俊輔(SURE http://groupsure.net/post_item.php?type=books&page=tsurumi_mourokuchou) <br>『メスグロヒョウモンの日は君にもあったでしょう』内藤礼 <br>「生きて死ぬ私」茂木健一郎(ちくま文庫)の解説文で、13年ほど前に友人が私を思い出すと手紙に全文書いて送ってくれました。 <br>本を買いに出かけることがとんとなくなってしまい、手持ちの札から出せるものが少なく、また流通に乗っているものももしかしたら少ないです。 <br>これと以前に書いた「透明人間の納屋」以外は自分で書店で手に取った本です。 <br>雪雪さんへのお勧めと言えるのかわからないのですが、 <br>「空の上のアレン」筒井百々子 <br>「ものまね鳥シンフォニー」筒井百々子 <br>「小さき花や小さき花びら」筒井百々子 <br>「たんぽぽクレーター」筒井百々子 <br>今読むのが困難という点も含めて読めなくなるのは惜しい本だと思い、ここに置かせて頂きます。 <br>けっして、今までのものもそうですし書き込み自体もそうですが、読まねばならないリストではないです。 <br>ハンブリーさんの本は流浪の旅ですが持ち歩いて読める時に読もうと思います。 <br>いつも長くなってしまって大変申し訳ありません。 <br>また旅の途中に寄ります。
手話を身につける機会は逸してしまいましたが、手話にはとても関心があります。手話って「バベル17」みたい、と思っているのです。口話の場合は、異なった言語どうしのコミュニケーションはだいぶ難儀しますけど、手話どうしなら系統が違っていてもかなり会話が成立するといいますね。 <br>エマニュエル・ラブリ『かもめの叫び』、河崎佳子『きこえない子の心・ことば・家族』あたりが、手話をめぐって忘れ難い本です。 <br> <br>筒井百々子はほんとうに入手しにくくなりました。 <br>作者本人の音信が不通であるために復刊が進まないようです。どこでどうしていらっしゃるのか。