_ 「なにこれこわい。どうしてこういうのが書けるの」家内が言った。
ぼくが蜂飼耳の『空席日誌』を読みさして、その辺に置いていたのをふと手に取って読んだらしい。ぼくはこわいとは思っていなかったが、あるかもしれないなと思った。
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詩人が、詩では食っていけないので、次第に散文に軸足が移っていくことはよくあることで、詩の好きなぼくはもやもやしている。世をはかなんだ気分というか、無念というか。でも蜂飼耳はちょっとちがって、ぼくは彼女の詩よりも散文のほうが好きだ。なかでも、ほんの2ページのエッセイが45編、あいだに挟まった三編の短編によって四群に仕分けられた『空席日誌』がいちばん好きだ。
書かれてもよかったのに、紙幅のせいで書かれないでしまったことがたくさんある気がするから。書かれていないのに読めてしまうことがたくさん。
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波打ち際に裸足で立っていると、足のまわりから砂が運び去られて、体重がなくなったような、ほんの数ミリ浮き上がるような感じがする。その場にいるのに、運ばれている感じが。あれはすこしだけこわいけれども、蜂飼耳の散文は心を動かす。抱き留められかっさらわれるような移動感はない。重さを失って、慣性なしで、こつんと押される。ふわりと回される。
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脳は、感覚情報を処理して現在の情景を作り上げるまでに、どうしても現在から遅れてしまう。だから脳は、経験にしたがって現在を予測し続けている。わたしたちが「いま」だと思っている瞬間の情景は、現在を含んでいない。「いま」は「直前過去の認知」と、そこからの未来としての「現在の予測」とでできている。
わたしたちは、現在に密着しておらず、いつもすこし浮いているのだ。
主観的現在は常に、客観的現在を含まない。
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読むときも、わたしたちは予測している。うかうか蜂飼耳を読み進んでいると、一瞬、そこに挟まるはずのない現在が挟まる。予測の振り幅の外側を通る現在が、数行数語読み過ごしてから「あれ?」と思うほど、なにげなく軽く心をよぎる。
彼方へ運ばれるのではなく、彼方のほうがぼくを擦過していったみたいに。
まるで足下を水平線が通過していったみたいに。
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机に向かって本を読んでいると、ふと足の裏が濡れて、乾くと塩が残る。
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