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雪雪/醒めてみれば空耳

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2008-05-29 薄氷の上を旅するための極端な軽装

_ 文学史に疎い。文芸の来し方にも行く末にもあまり関心がないし、文学理論の消長にも興味がない。やたら本を読んでいるくせに、批評めいた気の利いたことが書けない。

いろんなことをよく知っていると言われるけれど、ぼくの関心の方向はひどく限られていると思う。

関心の赴くところがとても遠ければ、そこに辿り着くまでの地図は読めなくてはならない。そしてそこは、いろんな方向に遠いのだ。だから、広範な土地勘が必要になる。

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物語に飲み込まれて、時間を忘れて没頭するようなおもしろい本はありがたいことにたくさんあって、わくわくしたりどきどきしたりしたいときに読む本がなくて困ることはない。

むしろぼくが稀少だと思い大切に思うのは、醒めてゆく本だ。本に集中してゆくことが、本の中に入り込むことではなく、本から遠ざかってゆくように作用する本。熱くなる本ではなく、冷めてゆく本。自分の内省の力だけでは考えることができないことを考えさせ、備わった想像力だけでは想うことができないものを想わせてくれる本。憶い出すよすがのない記憶を喚び寄せる本。忘れる術のない約束を忘れさせる本。

すっかり飽き飽きしているのに、今でもたくさんの本を読み続けているのは、ほんとうに稀に見つかるそういう本を探すためだ。書店員をやっていると、数え切れないすばらしい本の現物を、とりあえず手に取って開いてみることができる。求めている対象が、もうほんとうに絞られているので、どんなに世評が高い本でも、一読傑作であることがありありと伝わってくる本であっても、食指が動かないことのほうが多い。

探し求めているものは、おぼろでありかすかであり、風に吹き払われた煙の残り香を探すのに似ている。それは本の隅々までうすうすと伸び広がっているので、これがその本だとはすぐに分からないこともある。ぱらぱらと本の中を逍遥するうちに、やがて確信する。

ちがうときにはすぐに分かる。ほとんどの本には、ぼくが探しているような本に、書かれていてはならないことが書かれているから。およそすべてのページに。

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ぼくが探している本は、限られたちいさな力で書かれた本だ。使うまいとする力を鎮め、頼るまいとする力を忘れ、拒みたい力を慰め、かすかに残った乏しい力で書かれた本だ。

書きたいという情熱にさえ溶かされてしまう薄氷が、奇跡的に張り渡された水面を、渡る歩調でぼくはそれを読む。うまく読めるときほど、長く読み続けることはできない。その繊細さに感動して、胸がいっぱいになって、氷を割ってしまうから。

本日のコメント(全7件) [コメントを入れる]
_ kaeko (2008-05-29 21:39)

雪雪さんこんにちは。はじめまして。きじかえこです。<br>あの本を書いた後、意識の表面と閾下が、なんとなく別々の方向を向いちゃってうまく噛み合わない感じで、ずっと精神がわたわたしてたんですが、引っ越しして、コドモが別室で寝てくれるようになったら、なんか、もうれつに眠くなってきました。<br>ここ数日、一日の半分以上を眠って過ごしています。<br><br>常々、あたしって間違っても『作家』とかじゃないな、と思います。<br>あんなもん、『職業』にしたら、たぶんすぐに死にます。<br>それほど、あたしの力って、『限られたちいさな』ものです。<br>いつか、雪雪さんにお便りしなくちゃなあ、と思いつつ、なかなかタイミングが掴めずにいたのですが、今日、『書きたいという情熱にさえ溶かされてしまう薄氷』という言葉に出逢ったら、あ、今いいのかな、と思いました。最近ほんと、そーいう夢ばっかです。

_ 雪雪 (2008-05-31 01:01)

はじめましてきじさん。うれしいので、何度も読み返してしまいましたが、他愛ないものです、ちゃんと読めません、と言いますか読み終わりません。いろいろなことを考えてしまいましたが、内容とはあまり関係のないことばかりです。<br>きっとまた何度も読み返してうれしくなることでしょう。内容と関係なく。ありがとうございます。<br>きじさんの文章を読むと、たくさんのことが分かるのですが、分かるほどに少ししか分かっていない感じがします。自分は傲慢だと思っていたのに、実は謙虚だったと悟るような。悪徳について反省している場合ではなくて、美徳について反省してしまうような。<br>それにつけても、作家を職業として、死んでしまわない人たちはほんとうにすごいと思います。作家として最高の才能を持った人はおそらく、職業作家としての適性はないのではないでしょうか。

_ kaeko (2008-05-31 19:15)

「同じハムからもう一枚切り出すようなことはするべきではない」と、ミヒャエル・エンデが言っていました。<br>それは、至極正しいことだ、と、思われたので、あたしはこれまで、ずっと、忠実にそうしてきました。<br>今でも、それは正しいことだと思っています。けれど、あの本以降、胸の中で(あたまではなく、胸)なにか、形容し難い不安感のようなものが、むくむく膨らんで止まりません。<br>あれを書いたのは、多分、あたしじゃないのです。<br><br>主人公が『禁止』を破ったために、全一なる状態から追い出されて苦労するタイプの昔話を読むたびに、子どもだったあたしは、バカだなあ、と思っていました。ロウソクを点して、神である夫の姿を見たばかりに、再び夫を取り戻すために長い苦しい旅を強いられる少女。別に姿なんか見えなくても、幸せだったんだから、好奇心さえ起こさなければ、そんな苦労しなくてすんだのに……<br>けれど、今の自分はもう、その旅の前と後の状態が、決定的に違う事を理解しています。<br>今の「眠い季節」が終わったら。<br>あたしはもしかして、ロウソクを点けてしまうのかもしれません。なにも見えないまま、素直な「依り代」として、奇跡的な薄氷を偶発的に作り出すツールであることを、止めてしまうのかもしれません。

_ 雪雪 (2008-05-31 23:21)

木地雅映子を好きになる人は、まず間違いなく今もどこかが痛み続けている人であろうし、そういった人たちがもしや作品から慰撫を得るとすれば、その慰みの手付きは、傷が開いてしまうような動きは注意深く避けながら傷の近くに触れ続ける繊細な手付きでしょう。耐えられる程度の痛みによる慰め、そういうことが可能な人はむろん、いちばん痛い処がどこかよく知っているわけで、いちばんの深傷を狙っていきなり指を突っ込むことだってできる。<br>ぼくはだから、あなたが書くものがとてもこわい。<br>木地雅映子の新作だばんざい! とは言えないにも関わらず読んでしまうのは、木地さんの灯そうとする蝋燭より遥かに安全であるとはいえ、闇があり手許に蝋燭があれば灯してしまう心のゆえです。<br>反面そういう不安がありながらうかうかと読んでしまうのは、自分を信頼するくらいには木地さんを信頼しているからで、木地さんは優しい人だと思っているからです。それは素直で善良な、運良く持って生まれてしまった優しさではなくて、残酷であるがゆえ、残酷さに対しては残酷になることができる、凶悪で後天的な、冷たい優しさだと思うから。<br>そういう優しさをぼくは、がたがた震えながら愛するのです。<br>こんなことを書いてなにをしようとしているのかと言うと、遠からず書かれてしまうのならば、木地さんの次の作品に影響を与えたいという僭越な心情であって、もっと不遜になって言えば心配だから。なにが心配かと言えば、未来の自分も読者も木地さんも、木地さんの周りの人もです。<br>くわばらくわばら、です。

_ kaeko (2008-06-01 21:26)

あたしも心配です。自分が。<br>単に従順で、感度のいい自動筆記装置だった自我が、自己に反逆するのです。おそらく、ただでは済まないでしょう。<br>昨日の朝、娘が「歯の抜ける夢」を見たと教えてくれました。<br>「歯を磨いていたら、乳歯じゃない大人の歯が、いきなりぼろぼろって三本も抜けた。すんごい怖かった」と。<br>10歳前後の子どもたちが通る「羽化」の季節が、すぐそこまで近づいて来ているのを感じます。そして、たとえあたしがどんなに「娘の人生に干渉はしない」と決意していようとも、やはり我々の精神は連動している。<br>おかあさんだって、成長しないわけにいきません。<br><br>雪雪さんにコンタクトを、と思ったのは、多分、黙ったままでそれをする勇気が、よわみそのきじにはなかったから、です。<br>どうやらあたしのものであるらしい、あのいなずまみたいな黒い馬。今までに何度か、ふいにやってきてはあたしを背中に乗せて、どこか高い所を飛ぶように走ってくれたあの生き物を、自由に呼び寄せられるようになるために。相応しい乗り手になるために。<br>しばらく、じびたをはいずってみます。<br><br>「てがみのあてさき」になって下さって、ありがとうございました。<br>いつか、道が交差して、お会いできたらと思っています。

_ 雪雪 (2008-06-02 01:49)

『悦楽の園』を読んで印象深かったことは、「木地雅映子が作家としてはどうあれ、人間的には成長している」ということでした。その成長は、状況に応じて必要があって意志的になさったのでしょうから、きっとその成長を必ずしも肯定しない力の揺り返しがあるはずだと感じたのです。『悦楽の園』は、『氷の海のガレオン』アゲインではなかった。でも、だからこそ『ガレオン』は揺り起こされてしまい、いつか戻ってくるだろうと思ったのです(思い切って言えば、文庫版『氷の海のガレオン』さえ、単行本版『氷の海のガレオン』アゲインではなかった)。 <br>. <br>未来がどうなるか、未来になってみないと分からないし、もしかすると未来になってもなにが起こっているのか分からないのかもしれない。 <br>ぼくは普遍的な心の準備をして待っています。いつものように。 <br>あなたの黒い馬や、ぼくの黒い馬みたいのものが、どちらから来てもよいように。 <br>. <br>おたよりしてくださって、ほんとうにありがとうございました。きじさんはぼくの昔からのアイドルですから、一連の返信は黄色い声で書きました。 <br>「じびた」はもちろん誤記でしょうが、かわいいので、使い方を勘案してどこかで使わせてもらいたいと思ったりします。 <br>. <br>ファンとして素直な思いの丈を言えば、単行本版『ガレオン』の、三編のバランスらしくないバランスが、ぼくはとてもとても好きだったので、文庫に入らなかった「天上の大陸」と「薬草使い」が、なんとか復刊されないものかなあと、今も諦め悪く思い続けています。

_ 雪雪 (2008-06-12 01:45)

ぼくの知っていることはほとんど知らなくて、ぼくの知らないことをたくさん知っていて、ぼくが感じないことを感じ、ぼくの使わない言葉をたくさん使う女友達がいて、その人とぼくを合わせると完璧になるんじゃないかと妄想したことがあります。ぼくは知人の特徴を掴むのがけっこう得意で、ついつい仕草や口調を模写してしまうのですが、その人の模写はぜんぜんできません。<br>その人が「じびたっていうもん」と教えてくれました。どうやら普通に「じびた」と言う地方があるのですね。誤記なんて言って、たいへん失礼しました。