_ あらゆるものは、いつもはや仏性を備えており、むしろ悟りのただ中にあるがゆえ悟りに気付かない。
悟りを開くことは悟りに到達することではなく、閉じた悟りを開き、悟りを出てゆくことである。
そのようにして、悟りを離れ悟りを外から眺めるときはじめて人は、じぶんがいつもはや悟っていたことを知る。
いわば、悟りを失うことによって、悟りについて悟る。つまり人は、悟らずにいられるときにだけ悟りを開く。
悟りを得ることに困難はない。悟りならばあらゆるものがすでに得ている。むしろ、悟らないでいることにこそ困難がある。悟りの外に留まることに、困難がある。
……ほんとうに。<br><br>雪雪さんは水境を「漂って」いらっしゃると思っていましたが、扉を閉めて、歩み、振り返ることができるほどの場所に立っていらっしゃるのですね。<br>「仏性」を、仮に「神性 Divinitas」と言い換えてみます。<br>そうしたら、「開く、拓く、出てゆく」を、「超出・エクスタシス extasy」と語ることもできるでしょう。<br>そこに私は、本質的な差異を覚えません。<br>たしかに、悟りならばあらゆるものがすでに得ている。<br>「すでにして、常にすべてが救われている」、とも……。<br>けれども、そこに留まることは、困難であるどころか不可能ですらあるのかもしれない。<br>私たちが、「生身」を携えている限りは。
はじめまして、一読者です。つぎの更新はいまかいまかと待ちのぞんでおりました。個人的にメールをお送りしたいのですが、もし公開できるアドレスをお持ちでしたら、おしえていただけませんか。
ああ、久しぶりの更新で、ほっとしてしまいました。<br><br>叙景集は静謐なものがあると思っていたので、更新されたらいいなあ、とずっと思っていました。<br><br>確かに、素晴らしく強烈な個性の方だと想像していた日記と著作からのつながりでこちらを拝見していたので、それがあまりにも濃すぎてコメントすることができなくなってしまっていました。<br><br>たとえば、今をときめく女性作家の方であっても、読むのがきついような気がしてしまうと、読めない感じがあったのです。随分前から、こちらは拝読していました。ディーン・クーンツのあたりも・・・この作家がそんなに、暗い方だと知らなかったのですが、かつて少しだけ読んでいたことを思い出しました。もう忘却の彼方ですし、多読ではありませんでしたので遠慮しておりました。
雪雪さん。今日、初めてこのHPを拝見しました。<br>はじめまして、こんにちは雪雪さん。ずっとお話をしたいと勝手ながら思っていました。<br>私は先月、もう4年も前の出来事を恩師から知ったのです。ちなみに私は彼女の同級生のようなものですが、私はそのことを先月まで全く知らなかったのです。雪雪さんのメールアドレスがあれば教えてもらえないでしょうか。どうかお願いします。
はじめまして、雪雪さん。<br>以前から拝見しておりましたが、やっとでコメントを書く勇気が持てました。<br>いつもあなたの感性に勇気づけられています。<br>思考することの正しさを、肯定してもらっているような気持ちになります。<br>私もまた、みなさんと同じように、雪雪さんと個人的なお話がしたいと望んでおります。<br>ご迷惑でなければ、メールアドレスを教えていただけないでしょうか。<br>お願い致します。
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