_ どうして本を読むかというと変化するためだ。心は地質学的に、ゆっくりと変化する。だから自分の体験でない出来事に触れて、ふだん揺れない心を揺らし緩ませる。そうして変化の歩調をすこし速める。
なんならおもしろくなくてもいいし、印象に残らなくてもよいし、共感できなくてもよい。固いところを緩めてくれるならば。
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読んだ事を忘れてしまうなら、その読書は無駄だったということはない。振動や褶曲がいつもメッセージを伴うわけではない。揺さぶられたら揺さぶられただけ、それに見合った感興が残るとも限らない。
読んでいて思わぬところが揺れてくるのを感じれば、必ずしも読み通さなくてもいい。あるいはちらほらと読んで、ゆらゆらと揺れ始めるページから読み進めればいい。
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_ 単純計算で言えば、本を百冊読んだ人が出会うような最高の一冊に、千冊読んだ人は十冊出会い、一万冊読んだ人は百冊出会う。百冊も出会えば、その百冊がぜんぶちがった百冊であることが分かるし、またほとんどおなじようなものでもあるとも分かる。
「こんなすごい本が世の中に存在するなんて!」と思った本が意外にありがちだと悟る。すっかり忘れていた本を読み返してみたら、その本以降一冊たりとも似たようなものに出会っていないことに気付く。
貴重であるものは必ずしも心に灼き付かない、ということが分かる。もちろん、灼き付くこともある。
あるいは、ぎりぎりで釣り合っていた天秤を一方に傾かせた最後の一滴だけが心に残ることもある。そういうとき、もう一方に傾くにも、ただ一滴で済んだということには、けだし気付かない。
_ ぼくにとって今、かけがえのない本があるとすればそれは、心のとある部分をその本だけが揺らしてくれる、そういう本だ。もちろん心の地質学的状況は人によって違うので、そういう本を不特定多数の人に薦める意義はあまりない。ただ、「今、この人に薦めたい」と思える人に、思えるタイミングで出会えれば、それは幸運と思う。
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_ このところ長いこと夢をみない時期が続いていた。と言っても、実際に夢をみていないはずはなくて、憶えていないだけなのだろう。不意に頬を打たれて目覚めてしまう夢や、覚醒に向けて背中を押しやってくれる夢を、みなくなっていたということなのだ。
ある本を読んだ晩から、いきなり夢をみるようになった。夢の記憶と繋がったまま目覚めるようになった。気分としては、凍結していた水道があったまって、蛇口からあっちゃこっちゃに水が噴き出してきた、という感じだ。
_ クリス・ファーマンが遺した唯一の小説『放課後のギャング団』。適当に悪く、そこそこ繊細な少年たちの物語。ありがち。物語じたいは懐かしいというより、自分も作中にいるみたいに生々しくて、むしろその生々しさが懐かしかった。
子どもの頃はリアルとフィクションの境界が曖昧なもので、「あれ、これって夢だったけ、ほんとだったっけ」と悩むことがあった。ドラマを視ても本を読んでも、まんまと術中にはまってしまって、おはなしの中に入って行きたくて居ても立ってもいられない。
そういう読書の幼年期が、ばさばさと、やかましく羽ばたきながら戻ってきた。もう卒業したつもりの感情が窓をこじ開けて押し入ってきた。今、目の前で物語が起こっているようだった。物語の真ん中まで走っていきたかった。許しがたい奴を懲らしめてやりたかった。軽率な友人にそいつがどんなくだらない野郎なのか思い知らせてやりたかった。鈍い主人公の耳元で「気付け!」と怒鳴ってやりたかった。傷付いている人を、どんくさいキャラに替わって慰めたかった。
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_ どうして夢をみなくなっていたのか、はっきりとは分からない。
どうして夢が復旧したのか、それはもっとわからない。『放課後のギャング団』ひとつの力ではないだろう。いろいろな力が緩めていた場所の、決定的な筋目のところに、この本がこつんとぶつかっただけかもしれない。
たぶん、クリス・ファーマンが書こうとしたことと、ぼくの夢がぼくに報せようとしていることが、迂遠に繋がっているのだと思う。
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_ ここ半月、一日二三回泣く。すごく涙もろい。
なにがどこへ向かっているのか。なんの準備なのか。
_ しかし『放課後のギャング団』というのは、知らない人がふと手に取ってみたくなる邦題ではないな。『チビと脱腸』がいいと思う。