_ 昨日の自分の文章を読み返して、どうしてフェルメールを加えて五大遠近術師としなかったのかな、と思った。フェルメールが入ればグループとしても箔が付くのに。フロイト的父殺し?
そうではなくて、あのとき念頭にあったのはJ・J・ギブソンの『生態学的視覚論』で、視る者に動感をアフォードしてくるある特定の不変項と可変項について考えていたのだった。視線が画面と連動して動揺するような遠近法から、人間の視知覚の構造についてなにか新しいことが抽出できそうな気がしているのだ。(あの四人とはちがって、フェルメールは止まって見る絵なのだった。)
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特にアルマ=タデマは謎めいている。非常にシャッタースピードの速いスナップショット風で、画面は完璧に静止しているのに、時間とはちがう「経過」がアフォードされてきて、歯が浮いて噛み合わせをふにゃっと空振りするような動感がある。
6月3日にタイトルを挙げた『ダイノトピア』のジェームス・ガーニーが、アルマ=タデマをとても好きだということは、表紙を一見すれば分かる。構図もモチーフも色彩の配分もアルマ=タデマ得意のパターンだ。そこが『ダイノトピア』の好きなところでもあるがしかし、あの魔法のような遠近法は、残念ながら当然ながらまったく再現されていない。
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この辺のことを考えていて、遠廻しにくすぐられるものがあったのが、古谷利裕さんの『偽日記』(6/4)のインスタレーションに関わる以下の文章で、
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<展示では、出来るだけ多くの作品を見せたいと思っているのだけど、(これもドローイングを描きつつ実感として思ったことなのだけど)「線」は、「色彩」や「形態」以上に、互いに干渉し合うことによって意味をもつ(生きたり死んだりする)という度合いが強いので、作品のフレーム(作品というひとつの「まとまり」や「秩序」)を超えて干渉が起こりやすいのではないかと思う。ぼくは常々、展示によって良し悪しが左右されるような作品では駄目なのだ、と言っているのだけど、ドローイングの場合、展示の時にタブロー以上に、作品同士の干渉に気を使う必要があるようにも思う。(不用意に並べると意味を打ち消し合ってしまう。)線というのは非常にデリケートなもので、それに比べると色彩は随分と鷹揚であるように、最近のドローイングの仕事をしつつ思う。今のなんとなくの目標のひとつに、色彩と同じくらいに鷹揚な線がひきたい、というのがある。>
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ああ、線に長けた人のマンガを見ていて、ページ上に近接してコマ割りされた画の配列がうるさくなってくるのはそれか、と腑に落ちた気がしたが、これはもう一段か二段落ちてくれるといろいろなことに繋がってきそうな気がしている。今日は繋がんないんだけどね。
散漫だけれども未来の自分のために備忘しておきます。
こんにちわ。<br>月並みですが遠近術の漫画というと僕は大友克洋を思い出します。絵を描く人はみんな自分の使いやすいパースというのをもっているようですね。優れた人はそのレンズを自在に伸び縮みさせられるのでしょう。<br><br>「線に長けたマンガ」というのが誰なのか、もしよろしかったら教えてもらえると幸いです。<br><br>僕も空気まで匂ってくるような絵が描ければと<br>いつも思っています。
☆きゅうりさんこんにちはー。<br>>「線に長けたマンガ」というのが誰なのか、<br>ぼくは線の鑑識眼には自信がないのですが、言うだけ言ってみる。<br>画が線に従属していてやかましいのが山田章博、やかましくないのが福山庸治。<br>大友克洋関連では、ジェフ・ジョーンズ(ジェフリィ・ジョーンズ)の線がもう溜息。ジェフのコミックの一コマを、雑誌「SF宝石」のイラストレーションで、こっそり模写していたのを微笑ましく思い出します。ぼくも「これはすごい」と思ったシーンだったので、大友氏の賛同を得たみたいで嬉しかった。<br><br>きゅうりさんもすてきなものをたくさん見て、まだ誰も描いたことのない絵を描いてください。