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雪雪/醒めてみれば空耳

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2006-05-27 夢と日常のあいだの中性浮力

_ 立花種久という作家は不思議な作家で、キャリアは長くて著書は10冊以上あるのに文庫もないし、ほとんど言及されないし、アマゾンでもレヴュー付いてないし、首を傾げたくなるほど無名だ。好きだという人はおろか、知っている人にさえ会ったことがない。あ、もちろん立花種久のほとんどの著作を発行しているパロル舎の営業さんは別だ。「売れているはずがないのに、どうしてこんなに本が出せるの? もしかして社長のペンネーム?」と訊いてみたが、打てば響く人なのに、もごもごと口ごもってしまった。なんで?

ネット上を渉猟してみてぼくより立花種久を好きそうな人がようやっと二人見つかりはしたが、心細い限りである。

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内田百閒だとか天沢退二郎あたりの夢幻感に魅かれる人はきっと好きだと思う。名前を挙げた二人との違いは、幻想に引き摺られても現実に突っ込んだ片脚はけっして抜かないところで、その抑制というか節度が人によっては物足りないかもしれないけれども、やっぱり立花でなくちゃ、という魅力もそこだ。

あえてコントラストを付けて表現するなら、百閒や天沢の夢幻感が夜の夢の質感であるとすれば、立花のそれは白昼夢の質感である。睡眠時の現実感vs覚醒時の夢幻感といったところか。

話者の極私的なエピソードや所帯臭い思惑や時代背景で陰翳を付けることをしない。と、これは逆から言うべきか、日常を描いてもどうも陰翳が付いてこない。キャラは立ち切らない。そして幻想は煮え切らない。

いつも現実からゆるゆると幻想に滑り込んでいくのだが、あらかじめ幻想からの浮力が現実にはたらいていて着地しない。幻想には現実のマイナス浮力がかかっていて飛び立たない。言わば夢と日常のあいだで浮きも沈みもしない中性浮力。このバランスの絶妙さは立花種久ならではだと思うが、この静穏さによって、常識の一般性によって隠蔽されている本来見えない普遍性が滲み出してくるのだ。「変哲ない日常」と併存している「変哲ない幻想」が。ぞくぞく。

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いまのところ最新の作品集『電気女』はいっそう文章に磨きがかかっておいしい。ぼく個人としては百閒や天沢のほうが好みなのだが、こういう渋いのを探していました! という人は間違いなくいると思うし、人によっては全部集める羽目になると思う。少なくとも、白日の夢幻感という限られた土俵の上では右に出る者がいない、最高の作家である。