_ 物心がついて最初の「さっき」はすでに懐かしい昔だったが、それが一番古い記憶というわけではなかった。
自分が始まったのはついさっきなのに、記憶はもっと古かった。おそろしく古かった。それは醒めたばかりの夢の記憶に近い。しかもその夢は、私にとって一生分の長さなのだった。まだほんの数年の一生だとしても。
物心は夢に埋もれかけた不規則な足跡のように続いていた。してみると今ついたこの物心は、一連の点綴する物心の最終連なのかもしれない。
物心はたぶん何度もつく。まどろむ者が物音を聴いて薄目を開けるみたいに。物心はついては去り、ついては去って、そして今日とうとう去り方を忘れてしまった。私はきっと、扉を開けて明るい場所に出てしまったのだ。心の中を歩いているうちに。
なにが始まるんだろう、と思った(いまだにそう思っている)。
私は顔を上げてずるりずるりと這った。物心が物珍しくて、もっとよく見ようとして辺りを見回した。
はじめて見る家はすでになじんでいて不安はなかった。窓が近かったが高すぎて白い光しか見えない。ぼくの眼に光は強過ぎて色も細部も飛んでいた。
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ほんとうにそう見えたのか、記憶のほうの細部が飛んでいてそうとしか思い出せないのか、どちらともつかない。きっと、どっちもどっちだ。
そもそも「物心が付く」なんて概念がない幼い頃にすでに、「あれはなんだったのか」と何度も想起したから、そのとき分析したことや解釈したことが無警戒に付加され加工されてしまっているだろう。この文章じたい、言葉のない頃の体験なんて過不足なく語りようもないから、まだ人ではなかった自分を擬人化して語っているにすぎない。
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物心が付いた日の翌日、人生最初の昨日をどんなふうに思い出したかは憶えていない。範例が少なすぎて、まだどっちが昨日だかわからなかったと思う。
物心以前の記憶は齢を重ねるごとに引き出すことができなくなった。今は「物心以前の記憶」を、物心以後に想起した記憶しかない。物心以後に思い出さなかった記憶にはもう手が届かない。忘れてしまったわけではなく、おそらく以前以後で、記憶のコーディングの方法が異なっていて、互換性がないのだと思う。音楽ソフトが変遷するように、記憶方法の不可逆な技術革新が進行したのだ。言語を習得にするにつれて。
物心以前の記憶は次第に遠ざかり、細部の不分明な遠景になり、人生の背景音になった。それはいつも聴こえているから、聴こえていることに気付かない。
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