鏡を見ているとき、くしゃみをしたら、顔に唾がふりかかってきたので、自分のほうが鏡像で、なるほど周囲に奥行きがないことに気付く。 鏡の向こうのあたしが鏡の前から歩み去ったら、どうなってしまうのかなあたしは。
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『階段』という名の本があり、大きくて縦に長い。積み上げると、階段として登ってゆくことができる。
ぼくは『階段』の三八巻目に腰掛け、三九巻を読んでいる。おはなしも少しずつズレながら高まってゆくのだ身も心も登るのだ。
好天にめぐまれて、異様にすがすがしい風が吹き渡る。
読み終えるとぼくは、『階段』を少しくだって向き直り、三八巻のうえに三九巻を置く。Yの字になってしみじみと深呼吸したのち、四〇巻を買いにいく。
北の空に、女の子がひとり浮かんでいる。『階段』の一冊に寝そべり、その次の巻を読んでいる。あれは何巻目あたりだろうか。ぼくが読んでいるよりだいぶ先のほうだ。途中からいきなり読み始めたのかなあ。ではなくて、図書館から二冊ずつ借りてきているのかもしれないけど。だったらいいけど。
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病棟の白い廊下の窓際で「こちらが骨で啼く鳥の声」と紹介を受ける。
窓に切り抜かれた陽光がはらりと床に落ちている。おなじ位置にあるふりをしながら、それとわからない速さで横滑りしてゆく。
「刻限」、という文字。
この状況のすべてが、複雑なつくりの「刻限」という文字。
声を、紹介してくれた白衣の叔父の、掌だけがひらめき、文字の読まれる時代を百年進める。
一瞬、日付の擦過する音。
叔父さん叔父さんその手を気をつけて戻さないと、窓の外でいまは、なんの意志もあらわさずにいる季節が一秒の基準であることをやめてしまうかも知れない。
その忠告は、頭上の蛍光灯にかかる蜘蛛の巣に託した。蛍光灯のまたたきと蜘蛛の巣のかかわりに託したはずの、
あれを
視界に入れて、
叔父さん。
はやく。