_ ピーター・S・ビーグルの『最後のユニコーン』を、ときどき読み返すのですが、十代の初読のときには「こんなに早く、生涯最高の本に出会ってしまった」と、大仰なことを思ったものでした。その感慨は持続しませんでしたが。というのも、生涯に渡って最高の本というのは存在しないからです。人は、生涯に渡って同一人物であるわけではないから。
.
見て来たように神秘を描くのがファンタジィだとすれば、ぼくにとって『最後のユニコーン』はファンタジィではなく、それじたいが神秘的な物体でした。このようなことを言葉で書くことができるとは知らなかった。そういう一節がとめどなくあらわれるのですから。
読ませられるまで気付かなかった、読みたいこと。この本以前にも、そのような言葉に出会ったことはありました。しかし千の書物を渉猟してやっと蒐められるような珠玉の一節が、このたった一冊のなかから溢れこぼれてくるのです。「読む前の自分にはもどれない」そう思ったはじめての本でした。
こんなふうに見たい見えたい。そう思いました。ここにあるような宝物を自分のなかに生み出すこと、当時の熱っぽい気分で言えば、それが感動したことの証だと思ったのです。
.
今でも、読み返すたびに、奇跡を見るような気分になりますが、当時ほどの驚きはありません。ぼくにとって、『最後のユニコーン』はエキゾティックでもストレンジでもなくなったからです。ほぼ日常になってしまった。
(とは言っても、ビーグルのようには、到底書けませんけれど)
.
『航天機構』というHPの水城徹氏の書評を、ぼくは信頼しているのですが、グレッグ・イーガン激賞で、テッド・チャンはさほどでもないあたりが面白いです。ブルース・スターリングが高評価なのもうれしい。評者の思い入れの強いタイトルは、何度も出てくるところも好きw
そして、『最後のユニコーン』だけが、たくさんの書評のなか、まったく単独の語調で評価されているところが、微笑ましく、心温まります。