呼び声がしたように思って、振り返ってみると誰もいない。
誰もいないと思ったが、ビルの狭間からこっそりと夕陽がのぞきこんでいる。
もちろん夕陽がぼくに呼びかけるはずもなくて、そこにいるとは知らず眼にした夕陽の色が、人の呼ぶ声に似ているだけなのだ。
少しずつ傾いて右のビルの背中に隠れようとするから、おなじだけ左にずれて追いかける。
ビルとビルの間隙が糸のように細くなる位置が、追跡の終止点。
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そういえば以前、ビルに囲まれた公園で、夕刻、左に動いていた女の子を見た。
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もしかするとさっき呼んだのはあの子の記憶だったのかもしれないし、今どこかにいるあの子自身かもしれない。
きっとまたどこかで、少しずつ左へと動いているのだと思うがそれはさだかではない。
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はじめに水たまりの波紋。干反ったこけら板のひびわれ。幾重にもめくれ上がった電話帳の角。詰まっていた用水堰が水圧に堪えかねて一気に開通した臭い。そして内気な青年の網膜。
青年はわたしと視線が合うとすぐに眼を伏せてしまうので、いろいろな場所に読み取ってきた秘密の伝言の最後の一節を、期日までに読み取れるかどうか、不安で不安で仕方がない。
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三日前に<青>が降ったという平原に立つ。
まだ風がほんのりと青い。
呼気のなかの青が血液にしみこみ、脳の関門をわずかずつ通り抜けてくると、こうして思い巡らしている言葉が青みを帯びて、速度を増してゆくのがわかる。
ぼくの脳髄の、夜が明けるきざしとして。
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仮面舞踏会で女をひっかける。月下の庭園に出て、連れ立って木蔭に入る。ことにおよぶ前に、儀礼的に仮面を交換する際、木の間ごしに射し込む光をよぎった目もとで、この女が私自身であることに気付く。ひしと抱き寄せて、汗ばんだ首筋を嗅ぎながら胸元をほどき始めても、彼女は私が自分だとは気付いていない様子だ。どの段階で気付くのか。あれこれ想像をして興奮してくる。