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雪雪/醒めてみれば空耳

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2002-11-12 それもまた別の神の一手

_ いつも脳裏によみがえってくるのは、藤崎あかりの、ふたつの後姿だ。

_ 藤崎あかりが『ヒカルの碁』のヒロインであることは確かだ。しかし不確かだ。20に及ばんとする巻数を重ねながら、これといって特筆すべきエピソードもない。作劇上これほど存在感のないヒロインもめずらしいのではないか。超越論的壁の花である。

けれども2ちゃんねるの漫画板あたりをのぞいてみれば、藤崎あかり萌えスレがざくざく立っている。エロ板にも伝染しているようだ。好きなぼくでさえ(これほど人気があるとは・・・)感嘆するくらいだ。

ひたすら小畑健の画力のみによってキャラが立っている。そういうことなのだろうか。

_ 小畑健は『ヒカルの碁』連載開始当初はけっして、突出して画のうまいマンガ家、というまでのあつかいではなかったと思う。それが今では、「いちばん画のうまいマンガ家って誰?」という質問を二十人にすれば、確実に何票か入る、というポジションに到達している。

マンガ家としての成長期とでも言うのだろうか。描くほどに上達していく時期だったのは確かだ。けれど、経験値を重ねるような熟達とは、ちがった種類の変化がかれにはあったと、ぼくは思う。

_ 13〜14巻の佐為と塔矢行洋との対局を境に、小畑の画風は急激に変貌をとげていった。

これまでの展開の中で、もっとも高階の知的なせめぎあいを描く中でかれは、それまで自分の画をもって語らせ得るとは思っていなかったなにかを、語り始めたのだ。

画面上に常に漂っていたほのぼのとした雰囲気(それは小畑の持ち味だったが)は、思い切りよく一掃された(ほのぼのとしたエピソードがなくなったわけではない)。

引き換えに吹き込まれたなにか。

それはいったいなんだろう?

. 

将棋のはなしになるが、田中寅彦が著書のなかで、有名な「羽生のため息」について述懐している。

羽生善治は対局中に印象的なため息を洩らすことがある。それがあまりに深く大きくて、周囲にもはっきり聞こえるので、「『羽生のため息』が出た」と、慣用句的に言い慣らされているほどだという。白熱した対局のなかで、自分の勝利が見えたとたん、これが出る。けれどもそれは、ほっとしたため息ではない。「こんなにすばらしい将棋だったのに、相手のつまらないミスでこの楽しい時間が終わってしまう」という落胆のため息なのだ。いかにも無念そうなひびきが、相手の気持ちを逆撫でせずにはおかない、そんな(天才ならではの)しぐさなのである。

_ ぼくは『ヒカルの碁』をリアルタイムで追いかけてはいなかった。

第二部開始前、番外編として描かれた(主要なサブキャラを主役にした)六つの短編、その塔矢アキラの回を、コンビニで立ち読みした。読み終えたぼくは、そのままコミックスを買いに走った。

塔矢アキラは、本編では主人公ヒカルのはるかに先を歩む目標としての役割を担う。この短編はアキラとヒカルが出会う直前のエピソードである。

―小学六年のアキラの力は卓越していて、天才ゆえの孤独を感じていた。好敵手と期待した少年との対局にアキラは勇んで臨むが、相手の力量を見定めるとともに、序盤の引き締まった表情がだんだんと緩んでゆく。この緊張から弛緩への表情のグラデーションが絶妙の一言だ。

コミックス18巻の29ページにあたるこのシーンは、「勝ってしまうことへの失望」そして「満たされぬ知的な欲望」の気配を、ため息のように発散している。

_ 佐為と塔矢行洋の対局以降には、(第一部終了直前の「黒いコマ」を始めとして)天才的なコマがいくつもあるけれど、

17巻の109ページと19巻の149ページには、他でもない藤崎あかりの後姿がある。

ぼくはいつもこのふたつのコマ(とそこに至る繊細な流れ)に感嘆してしまうのだ。

ひとつめは、ヒカルに「一局打たねェ?」と誘われて、ついてゆくシーンだ。ヒカルの歩幅に追いつこうと少しだけ早足になって、ヒカルの視界から外れているために(無警戒に)ちょっとウキウキしているのが、(読者には)バレバレの後姿、かわいいぞ。

ふたつめは、先生から「第一志望ギリギリ」と言われてめげているあかりが、帰り道ヒカルの母親に会い、(がんばってる)ヒカルの話をきいてじわじわっとやる気が湧いて、ファイトコールしながら(巡航速度をちょっと超える速さで)走って帰る後姿である。そして、まさにそのような後姿でしかないところがすごい。(たとえば「父危篤の報に、収容先の病院に心を馳せながら、全力疾走する後姿」ではない。試みにフキダシを隠して、夜空に白抜きで「おとうさん、待ってて・・・・」と書き込んでみるといい。どーもしっくりこない、よね?)。

どちらのシーンも、マンガ的記号の支援は皆無と言ってよい素朴な画面構成だ。

この単なる後姿、しかしとても雄弁な後姿が、ぼくはとても気に入ってしまっている。

(ひとつめのシーンならあかりの頭から波線伸ばして先端にぴとっとハートを置くとか、ふたつめのシーンなら片手を空に突き上げるとかすれば、解釈が固定されて楽であろうが。むろん、それでは萌えない)。

_ ぼくを一気に引きずり込んだ、18巻29ページ「アキラ勝利に失望」の場面。最後のコマのネームは完全に蛇足だと思う。原作の中にはあったのだろう。仮に削除しても、表現に不足はないと思える。かえって邪魔なくらいだ。

ただ、当該シーン執筆からほぼ一年をへだてた今の小畑健なら、きっとこのネームを削除するだろうとぼくは考えている。

彼の変化は、今も進行中だ。

.

第二部以降は少しく評判がよくないようだ。「人気作品につきもののクライマックスのあとの引き延ばしだ」とか、「ただ碁をやっているだけで単調」とか、そういう評言に出会う。理解できるが、残念である。ぼくにとっては、どんどんおもしろくなっているので。ほったゆみの原作も作画の小畑に挑戦的で、彼の力を引き出していると思う。

ここはへんなテコ入れが入らぬよう祈っております。

ぼくは小畑健がどこまでゆくのか、見たいんだ。

_ ヒカルが「ヒカル自身の碁」を見出してゆくとともに、彼と彼を取り巻くライヴァルたちの視線も変わってゆく。

なにを見ている、と、言えはしないが、なにかを見ていることを確信している眼に。

それは小畑健自身の視線の変化でもあるのだろう。

(当初より目線の鋭いキャラとして登場した緒方でさえ、登場シーンをさかのぼってみると、思いの外グサッとこない眼をしている。彼でさえ、佐為と塔矢行洋の対局を見つめるにふさわしい視線を、あらためて獲得しなければならなかったのだ)。

このように言えるかもしれない。

マンガ家のたどる軌道が、あるとき登場人物たちの軌道と重なり、マンガ家は登場人物たちの視線を獲得したのだと。そのとき初めて登場人物たちは、彼らに備わっていたはずの視線を、画面の上で示すことができたのだ。

_ ヒカルやアキラや塔矢行洋、緒方十段、桑原本因坊らの視線の先に「神の一手」があるとすればあるいは、「神の一手」を求める知的な欲望の物語―『ヒカルの碁』―はそのまま、

「神の一コマ」を求めるマンガ家の碁盤なのかもしれない。

(しょせんは儚い夢物語だろうか?しかしこれは初めてみる夢だ)。

_ 碁盤のこちら側で、それを見届ける読者でありたという欲望。そしてぼくの視線が充分に鋭いことをまた、欲望する。