_ テンプル・グランディンはおりおり、「締め上げ機」のなかで安らいだ。
彼女は、自閉症でありながら動物学で博士号を取り、大学で教え、家畜を「死の恐怖を抱かせずに」屠殺するシステムを開発している。
人間のがさつな抱擁では安らぐことができなかったテンプルは、産業用コンプレッサーとやわらかいパッドを使って、全身を均一に穏やかに「締め上げてくれる機械」を製作した。「締め上げ機」を出てくると、緊張が解け、ふだんは遠いところにある「他者への共感」が芽生えている。テンプルの猫は、彼女が「変化」していることを、いつも敏感に察知するという。
テンプルは動物のしぐさや感情なら「直観的にわかる」。けれども人間のそれは、頭で理解するしかなかった。
オリヴァー・サックスが自著のタイトルにした「火星の人類学者」。これはテンプル・グランディンの呼び名である。火星人が地球に来て人類を研究しているような人、ということだ。
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ぼくが大学一年のとき、ひと月ほどマタタビになったことがある。
道で前を横切ろうとした猫が、ふと立ち止まってぼくを見ている。「こんにちは」とあいさつして通り過ぎ、十歩あるいて振り返ると、まだこっちを見ている。別の日には、買い物帰りに何気なくうしろを見ると、とことこと歩いていた黒猫がぴたりと立ち止まる。見ているあいだはじっとしている(「だるまさんがころんだ」かよ)。
そんなことが幾度かあって、気がつくとアパートのまわりで妙に猫が目につくようになっていた。見覚えがあるのもないのもいる。部屋で本を読んでいると、裏の菜園を横切る猫の影が再々眼の端をかすめる。
そのうちの一匹の三毛猫は、訪れるときはいつも、アパートのドアの前でまるくなっていた。この三毛はそれとなく態度がでかい。なにか鞘当てがあって、ここを勝ち取ったのかもしれない。
「またいるわ、このこ。あなた浮気してるんじゃないでしょうね?」恋人ににらまれる。
「部屋には上げないよ。大事な本が床に転がっているからね」
三毛はぼくたちと一緒に入ろうとするので、ドアに挟まないよう追い出すのに苦労する。三毛は鋭く抗議の声を上げる。「この女はよくて、なんであたしはだめなわけ?」
(ぼくはきみよりこの女が好きなんだよ)
ぼくの部屋を訪ねてくれる友人は一様に「なんかこのへん猫多くない?」と言うのだったが、相手によっては「おれについてくるんだよ」と打ち明けて、ひとしきり猫談義したりするのだった。
猫たちはなにを見ているんだろう。なにを知っているんだろう。(あのころのぼくに、なにかとくべつなところがあっただろうか)
人間はいろいろなものを見て、同時にいろいろなものを見逃している。猫もまたそうだろう。ただ、見ているものと見ていないものの仕分けが、猫と人では一致していないだけだ。
あのころのぼくは、「ぼくにとっての締め上げ機」に入っていたのかもしれない(穏やかで共感的な気分にはなっていたと思う)。その「締め上げ機」がどんなものだったかについては、きわめて私的で卑俗なことがらということで、ここはないしょにしておくけれども。
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おさないころ、ハム会社のマークが書かれた高い壁のそばで、二度と忘れられない長い悲鳴を聞いた。死を悟ってしまった賢すぎるブタの悲鳴を。
あのホイッスルのような甲高いひびきの思い出が甲高くひびいた。
こんなふうに心臓を擦過してゆく鏃のような思い出が、テンプル・グランディンにはきっとたくさんあるのだろうな。
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