_ 私たちは無数の色を見分けることができる。千種の橙色を見分けながらしかし、百種の橙色さえ思い浮かべることは難しい。
体験の記憶は、体験をそのまま写したヴィデオのように記録されるわけではない。写真的記憶の能力者たちという特異な例外を除いて、記憶として私たちのなかに残るのは体験の芯のようなもので、周縁部は細部が飛び陰翳を欠いている。再生するときには、蓄積した記憶から抽象された「家」「街並」「人波」「遠くの海」「海風」といった一般概念が、背景設定を補う。だから私たちが、過去の特定の瞬間を想起するとき、その素材はその瞬間からのみ収穫されたものではない。思い出される一瞬はいつも、人生のすべてをおぼろに含む。
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私のおさない記憶の背景に、今はもうない生家がある。それは家の一般論でできており、かすかな匂いのように、その家の“個”性を纏いつけているが、ひとたび家そのものに注目して家の像がイメージの中心視野に入ってくると、匂いのようであった個性は凝縮してしっかりと家に宿り、そのぶん一般性を霧散させる。ぼんやりと「立って」いた家が、突如「建つ」ように。
そして個性も、繰り返し想起されるうち、その個性なりの一般性を醸成して、より一般的な一般性を豊かにする。
記憶は、見つめられることによって目醒める人形のようだ。想起の視線そのものが魂であるかのように、見つめられたときだけぱっちりと眼を開け、見つめ返してくる人形のようだ。
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文字で書かれた物語は、始めから芯だけの体験のようなものだ。それを現体験として立ち上げる力は、読む人の記憶から喚び出される。読まれるその瞬間に撮影される映画のように。撮影が同時に上映である映画のように。
すばらしい本をすばらしくする力は、ほとんど読む人に宿っている。そして、読む人の記憶は日々変わってゆくので、まったくおなじ物語を、二度読むことはできない。
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.本を読んでいるとき、喚び出された記憶は、本によって磨かれ、再び記憶野に還ってゆく。記憶は体験そのものの刻印ではないがゆえ、磨かれ得る軟らかさと、交わり合う流動性を持つ。
(刻印され変更することのできない記憶が、フラッシュバックするトラウマである。それは非言語的な記憶であるために、説得することが困難である)
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才長けた友人が描いてくれた私の肖像画が、まさしく私そっくりであるのに、どうしようもなく美しく見えて驚いたことがある。私のようなものからその絵を引き出す力に、驚いたことがある。すばらしい本のすばらしさは、ときにその力に似ている。
たとえばクリストフ・バタイユ『時の主人(あるじ)』(集英社)。
これは読者を強く引き付ける力を持った本だ。しかし早く先を知りたいという欲望を掻き立てる力ではない。先へ先へではなく、もっと別の方向へ引っ張る力だ。
クリストフ・バタイユの文章は微に入らず細を穿たない。書割めいた、と言ってもいいくらい浅い。描写を捏ね回してベタベタと指紋を残さない。なにかを描写しているとは気付かずに、みずからの描出する物語の上を、物語に触れずに流れてゆく時間のような文体。物語が体験の芯であるとするなら、これはひたすら細くあえかな芯である。
さほど束のない本のなかで、世代は移り変わり、たくさんの出来事が起こるけれども、エピソードとエピソードがぎちぎちとひしめくような、喧騒や活力が溢れてくることはない。譬えるなら、長く風雨に曝され、成分が溶出し、冷え切って、軽く小さくきらきらに磨き上げられた『百年の孤独』。
このスカスカな、風の吹き抜ける空洞と水の通う経路を湛えた物語は、その静謐なたたずまいとは裏腹に、その豊かな空洞をして読む人の記憶を貪欲に汲み上げる。情景が立ち上がるとき、それはスナップショットとしてではなく、起こるそのとき同時に回想されているように流れる。ひとりの人の内心を流れる時のようにではなく、世界を浸して流れる時のように広闊な流域をひとつではない流速で流れる。時が、私の許に出来事を運び来る力は、届いたときにはもはや運び去る力である。おなじように『時の主人』のエピソードは、訪れるときすでに去ろうとする力を持って訪れる。その筆致は脳に、大量の記憶の支援を要請する。去らんとするものを追って、脳は急ぐ。脳が急ぐときにはかえって、心は静かになる。
記憶が大量に動員されるときには、心の辺鄙な場所に棲む、ふだん見慣れない記憶も姿を見せる。そしてこの物語の繊細な造作に触れた私の記憶たちは、少しだけ繊細に磨き上げられて、私の許に戻ってくる。旅先で自分に起こったことをまだ計りかねる表情で、独り言を呟きながら戻ってくる。
読む度に少しだけ私は変わり、そしてこの物語を他の物語を、また別の機会に、もう少しだけ繊細に読ませる。磨かれた記憶が、次に出会う物語を磨く。
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記憶は目醒め、物語に触れ、還ってくる。ときには、もともと自分のなかにあったとは思えないほど、きれいなものが残る。
説得することが困難なトラウマを説得・納得することができるとしたら、それこそが「ことば」でしょう。そうしたらきっと、トラウマは非言語的ではなくなる、いや、トラウマではなくなる。だけど、それができなくてもいい。非言語的なものを悲現的なものとして抱え続けてゆくことができれば、せめても・・・磨かれ、交わり合う可能性を秘め続けた記憶を、共有する者として。
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