誰かの母親になり、母親でいつづけるということは、そうなる前からもっていた有形無形の「自分のもの」たちを少しずつ捨てることである。
無形というのはたとえば、自分の時間とかこだわりとか趣味とか表現とか天職とか生活スタイルとか、そういうもの。
これは嬉しいことでもあるし残念なことでもあるし、そのどちらでもないともいえるし、もちろん、いいことでも悪いことでもない。
と、「母」についての一般論のように書いてみるが、一般的ではないのだった。
はじめからほとんど何ももっていないような人もいるし、持ちつづけられる人もいるだろうし、一気にたくさん捨た人もいるらしいし。
家族を「自分のもの」にしてしまうという罠にかからなければ、わたしが空っぽの「おばちゃん」になっても誰も困らない。当たり前だ。
身だしなみには気をつけようとは思う。
祈ることとは、視界を広げ、できるだけ大きい可能性の中に身をおくことだと思う。
「祈り」の一般的な定義づけをしたいわけではないけれど。
心から「ありがたい」と感じているとき、それは祈っているのだと思う。
祈りは感謝だけではないけれど、いきばのない感謝をもてあますときにできるのは祈ることだと思う。
祈ることと願うことは違う。
自分にまつわる願い事は祈りと正反対だと思う。
知らない他人たちについて願うことは?
自分がいない世界の他人について願うなら、祈りに似ている。
過去について願うことはあるだろうか。後悔ではなく、今の自分に何ら影響を及ぼさない過去について、何かを願うことは?
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