19世紀にブルトマンという人が、聖書に書かれている世界像を真理として受け入れることは、知性の犠牲であると言ったらしい。
現代の日本で生きている者にとっては、そりゃそうだろう、という話ではあるが、「知性の犠牲」という言葉にギクリとなった。
この、ただでさえ頼りなく弱々しい知性を、目的や願いのため犠牲にしすることが、ありそうなのだ。キリスト教に対するときなんか、とくに。
そんな中、家の台所の棚の中で未読の「無神論者は宗教を肯定できるか」というサブタイトルをもった本をみつけた。オオ。上野修によるスピノザの本。
読み始めてすぐに、やっぱりスピノザってすてき!と思う。
彼はこのように決心して、「神学・政治論」を書き始めたらしい。
聖書をとらわれない自由な精神でもってあらためて吟味しよう、そして聖書そのものからきわめて明瞭に知りうること以外のいかなることをも聖書について主張せずまたそうしたこと以外のいかなることをも聖書の教えとして容認しないことにしよう、と。
不可知論者でクリスチャンの田川建三が雑誌に寄せていた文章によると、ここで「しないようにしよう」と書かれているようなことが世界でいままでずっと大々的に行われてきたらしい。
じゃあ、みんなで聖書を正しく読解すればいいんじゃないか、という気もするが、その「正しい読解」というものが、信徒でなくとも、とてつもなく困難なのだろう。ただでさえ、客観的な読み、というものが可能な読み物は少ないのに、あの聖書である。
だから、スピノザがやろうとしている「聖書を自由な精神で吟味する」ということは、客観的でわかりやすい統一読解を目的とすることではないのではないか、と思う。
「神学・知性論」は手に取ったこともないくらいだが、そういう印象はない。なんだかよくわからない本だったはず。
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