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2004年10月27日

部品のない機械と感情

新潟の震災には多少意識を向けている。
最近読んでいる田口ランディさんのブログに、「意味ではなく、趣味のこと」という文章があった。
(ちなみに、こないだトラックバックしたらコメントしてくれてびっくりした。かなり今さらだけど、インターネットってすげえなあと思った)
この文章はとてもためになった。

私の記憶では、あんがいと足りなかったのは、大人のオムツとか、 生理用ナプキンだった。特に、大人のオムツはメーカー指定が出たりして困った。

こういった体験にもとづくことばは、想像力の暗い部分にさっと光をさしてくれる貴重なものだ。
ぼくは、ほんの少しのことをしてみようかと思っている。

だけど、ぼくはもともとボランティアや福祉に関心のない人間である。
成熟した人格を持っていなくて、他人に対していやになるほど拒絶的で、自分のことを考えるのでいつも精一杯だ。
ぼくはつぎのような文章に惹かれる。

(省略)その最初の感情につかまってしまうと、もうその先に進めなくなる。 感情のままに生きることは大切なことだけれど、感情にも幾重もの層があり、 最初の感情につかまってしまうと、表層のさらに下の感情に至れない。

今から8年前、20歳前後のぼくは、感情を憎み、感情の浮薄さが怖かった。
ぼくは「部品のない機械」になりたかった。なれると思ってた。
感情のことを知らなかったのだ。もっと深い場所には、匂いのような感情や体温のような感情が、漠として広がっているということを知らなかった。
そういう形のない感情に動かされる姿は、部品のない機械とある意味似ている。
でもそれは、生気ある感情だ。
そしてもう一つ、ぼくが学ばなければならなかったことがある。
それは、深い場所にある感情だけが「本当の」感情というわけではないということだ。
表層にあらわれた感情も、同じ本質と強さを持つ感情なのである。
だからランディさんの言うように、「押し殺す必要はないから、見つめていればいい」のだ。

投稿者 mit : 2004年10月27日 00:23